FC2ブログ

近代史のまとめ

ginza m9
明治9年ごろの銀座

 本が好きな人なんかと話をしてると、自分が近代の歴史をまるで知らないことに気づかされる。中世以前の知識は学校教育で十分。しかし近代以降となると学校教育では出来事や事件の名称と年号に触れる程度で、その背景にまで踏み込んだ授業はなされない。坂本龍馬が死んでしまうと、なんちゃら条約、事変、会談、合意なんて言葉だけがうわふわと浮遊していてそれらがまるでつながりを持ってくれない。

 近代以降は自主的に学ぶよりしょうがない。これは学校教育の歴史のカリキュラムに原因があるのだろうとずっと思っていた。
 でもどうもそれだけじゃなくて、近代になるととにかく制度が複雑になってくる。中世以前であれば、大まかな出来事と年代を覚えているだけで、横のつながり、影響までイメージできる。ところが近代となると、歴史の背景を知るためには社会科学、いわゆる公民の分野の知識が必要不可欠になってくる。そのせいで背景にまで踏み込んだ説明ができないのではないかという考えが浮かんだ。

 なるほど、だとすれば近代を読み解いていくことで、徐々に複雑化するシステムの理解を深める助けになるのでは? そんな思いつきで、近代史をまとめてみようと思った。軽い気持ちではじめたものの、結構大変だった。

 明治維新~第二次世界大戦の終わりまでをみていきたい。

広告

明治維新
まずは日本視点で、明治以降を追っていこうと思う。明治は1868年から始まるが、その3年前からみていきたい。

1865年 第二次長州征伐(慶応元年)
第二次ということはもちろん第一次があった。1964年に禁門の変、長州が京へ軍事侵攻するという事件があって、それにより長州は朝敵とされ幕府の長州征伐を招いた。
長州藩(現山口県)は薩摩藩(現鹿児島県)とともに討幕運動の中心となるが、第一次では薩摩が幕府方についたために幕府方の勝利。しかし薩摩の西郷隆盛がうまくとりなしたために、このときは厳しい沙汰はとられなかった。そして第二次長州征伐では、西郷隆盛が幕府につかなかった。さらには、14代将軍家茂の急死により幕府軍は撤退。
そのまま長州と薩摩が勢いを得て京都へ入ると、今度は孝明天皇が急死。15歳の明治天皇が即位した。長州征伐の勅令をだしたのは孝明天皇であり、このタイムリーな天皇の急死には当然のように暗殺説がある。

1867年 孝明天皇崩御(慶応2年)
クーデターが起きても次の天皇を立てるところが日本独特のシステムで、もしも天皇が統治権を持っていたら政治に対する批判が天皇の威厳を損ねるということになる。フランス革命がそれだ。日本の場合は天皇の威厳がすっかりと残っていたからこそ、天皇を前提に革命が成立すた。
私見になるがこの「長い間天皇が統治権を持っていなかった状態」が少なからず立憲君主制、近代化に対する抵抗を軽減していたと思う。さらに日本人は神性をもった君主が打倒されるところを一度も見たことが無い。君主の神性が軽んじられるようになると君主が乱立しては収拾がつかなくなる。しかし日本の場合は孝明天皇が幕府につけば幕府がまとまりを持つし、明治天皇が薩長につけば戸惑いつつも諸藩は薩長に味方する。そしてこの明治天皇の神性が、後に戊辰戦争で大きな役割を演じ、革命にともなう内戦のなかでいたずらに国力を損ねることなく近代化を果たす決め手となる。

1867年 大政奉還(慶応3年)
将軍に就任した徳川慶喜は大政奉還を行う。重要な出来事なのだがこの時点では幕府以外に政務を行う組織がなく、全く形だけの統治権の返上だった。尊王派の勢いをそぐための措置で、実際には幕府が統治を担っていく以外に方法がなかった。第二次長州征伐の失敗で、幕府はその威信を著しく低下させた。そこで大政奉還というデモンストレーションが必要だったのだ。
大政奉還の根底には大政委任論という考え方がある。将軍は天皇より国政を委任されているという考えかた。幕府は大政奉還によって幕府が大政委任論にのっとった組織であることを明確にし、尊王を掲げる志士たちが、尊王を理由に幕府を排斥しようという動きを牽制する狙いがあった。

1868年 王政復古の大号令
薩摩藩士・大久保利通らのを中心とする薩長勢力は擁立した明治天皇の元で王政復古の大号令を実行。そこには江戸幕府の廃止、さらに摂政・関白の廃止という内容が含まれていた。新政府からは上級貴族や、徳川を排除するという方向を明確にするものだった。
逆の見方をすると王政復古の大号令とは、新政府を主導するのは薩長と岩倉具視ら一部の公家であるという宣言。そして実際に薩長の藩士と岩倉具視らが新政府を主導していくことになる。

こう考えると明治維新というのは思っていた以上に軍事クーデター色が強い。大政奉還という言葉が印象的で、とにかく幕府が自主的に統治権を返還したものだと思い込んでいたが、そうではなく、だからこそこのまま戊辰戦争へと進んでいく。

1868年 戊辰戦争(慶応4年/明治元年)
戊辰戦争の発端は、旧幕府勢力と薩摩藩の私闘であり、旧幕府勢力にしても朝敵になるつもりはなかった。新政府内でも傍観に徹するべきという意見と、この機に旧幕府勢力をつぶしたいという意見とに分かれた。しかし、最終的に新政府が徳川征討を布告すると錦旗をみた旧幕府勢力は総崩れとなる。

1868年 明治が始まる
そしてこれ以降が日本における近代だとされる。
近世と近代のもっとも大きな違いは国民国家という概念。フランス革命で考えるとわかりやすいのだが、それまで国は内閣が動かしていくものだった。戦争を動かすのも内閣であり、民衆の意思とは無関係であった。それがフランス革命により国民という単位にまとめられる。ナポレオンが現れると戦争が国民の総意になる。各国が市民革命を経て国民国家という概念が定着すると、戦争は国家総力戦の時代となる。近代は世界大戦の時代だ。
日本でも江戸時代の幕府は藩を統べていたにすぎなかった。明治維新により、境界の曖昧だった琉球と蝦夷を取り込み、大日本帝国という中央集権国家にまとめ上げられる。

戊辰戦争の勝利を以って明治維新が終結。明治は日本をアジア初の国民国家体制へと導いていく。しかし議会開設までには23年を要しており、その間は薩長主導による改革体制が維持された。

明治5年(1872年)鉄道開業
明治7年(1874年)台湾出兵、台湾が帰属
明治8年(1875年)千島樺太交換条約が締結、日露国境が確定
明治9年(1876年)廃刀令、金禄公債証書発行条例
明治10年(1877年)西南戦争
明治15年(1882年)日本銀行の設立、そして円の導入
明治18年(1885年)近代的な内閣制度を創設、初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任
明治22年(1889年)大日本帝国憲法が公布され、翌年には帝国議会が発足。アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制民主主義国家が完成する

新体制を築く上で、まずは版籍奉還や廃藩置県といった言葉が出てくる。新政府が中央軍制を整えると、維新に心血を注いだ志士たちは職を失い、明治新政府に与した諸藩も土地と人民を天皇に返上した。この矛盾を後の西南戦争まで引きずっていく。

次に四民平等、富国強兵、自由民権運動などという言葉が出てくる。政府主導の産業育成が始まり、西洋式工業技術が導入される。鉄道が敷かれ、肉食の普及など、民間からも文明開化の動きが出る。独立国だった琉球王国が日本に組み込まれる。

神道が国教とされ、キリスト教は江戸時代から引き続き禁止された。しかし西洋列強からの非難を受けてキリスト教はすぐに解禁されることとなる。明治政府にとって、旧幕府時代に列強との間に締結された不平等条約の改正が急務だった。

1873年 明治六年政変
征韓論をめぐって大久保利通や岩倉具視と対立した西郷隆盛、板垣退助らが参議を辞任。この征韓論こそ最初に湧き上がった不平士族の不満であった。その不満をそらすために口実のあった台湾出兵を行った。

1876年 廃刀令、金禄公債証書発行条例を発布
この2つは帯刀・禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、不平士族の不満が爆発。1877年には西南戦争が勃発した。これが日本にとって最後の内戦となる。西郷隆盛の戦死とともに明治新政府の本格的なはじまりとなった。西郷とともに下野した板垣退助は政党を作り武力ではなく言論による政府批判という流れを作っていく。

1894年 日清戦争(明治27年)
朝鮮半島がきっかけとなった戦争。圧倒的な兵力差を跳ね返して日本は勝利し、下関条約を締結した。その中で清の朝鮮に対する宗主権が否定された。遼東半島の割譲も含まれていたものの、露仏独の三国干渉により返還させられた。李氏朝鮮は1897年に大韓帝国として独立。日清戦争の賠償金は、明治30年(1897年)の金本位制施行の源泉となる

1902年 日英同盟を締結。満州をにらむロシアを牽制するものだった

1904年 日露戦争(明治37年)
満州、朝鮮の利害をめぐる戦争。アメリカの仲介によりポーツマス条約で講和。南樺太の割譲など、実質日本の勝利だが賠償金は全くとれなかった。

1910年 日韓併合条約締結
1911年 辛亥革命、清が打倒され中華民国が成立
1912年 明治天皇の崩御、大正元年

1914年 サラエヴォ事件
オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝の継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、サラエヴォを視察中、セルビア人の青年によって暗殺された。セルビア政府が関与していたとされ、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告することになる。
ドイツがオーストリア=ハンガリー帝国を支持し(中央同盟国)、ロシアがセルビアを支持した(連合国)。ロシアは日露戦争で極東での南下政策を失敗したために、不凍港を求めてバルカン半島のセルビアにこだわる理由があった。

1914~1918年 第一次世界大戦
連合国
イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、日本、イタリア

中央同盟国
ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国

日英同盟の下に連合国側についた日本は、中国でののドイツ拠点、青島の戦いに日本・イギリス連合軍として参加し、攻略した。

1917年 ロシア革命
大戦の終結を待たずしてロシア軍は崩壊し、撤退。ロシアの撤退により、ドイツは西部戦線に部隊を集中させることができるようになり、イギリスとフランスは攻勢をかけられた。
そこでイギリスとフランスは日本にシベリア出兵を打診し、1918年より1925年までシベリア出兵が行われる。これは大戦が終わった後もしばらく続けられた。連合国側がロシア革命政権の打倒を目的としてロシアの内戦に干渉した形となる。日本としても天皇を掲げている以上、革命や共産主義の波及は望むところではなかった。

1919年 パリ講和会議
大日本帝国も連合国の5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、パラオやマーシャル諸島など
が日本の委任統治領となった。さらに1920年に設立された国際連盟に常任理事国として参加、名実ともに列強のひとつに数えられることになる。
敗戦各国の処分が決定された。
対ドイツの条約、ヴェルサイユ条約が調印された。対オスマン帝国の条約、セーブル条約が調印された。このセーブル条約におりこまれたイギリスの二枚舌外交がパレスチナ問題へのきっかけとなる。
敗戦国が賠償金によって損害を補償することは通例であったが、4年間に及ぶ史上初の世界大戦の与えた損害は到底補償できるものではなかった。しかし戦勝国側はヴェルサイユ条約の中でGDPの20年分ともいわれる賠償金をドイツに突きつけた。そしてヴェルサイユ体制が第二次大戦を招くことになる。さらには、この大戦が厭戦思想をもたらし、この後ナチスドイツの領土的野心に対しても各国は腰が重くなっていた。

日本とアメリカは戦争特需の好景気に沸いた。大戦景気が及ぶ場所は、直接戦場となっていない国であることが多い。船や航空などの軍事に直結する技術が著しく進化する傾向を持っており、戦争が終わった後に大きな影響をもたらす。

1918年 米騒動
米価高騰により富山で米騒動がおこる。原因は人口増加と農業ばなれ。以前はヒエやムギといった雑穀を食べていた層が米をたべるようになったこと。さらに、シベリア出兵の特需を期待した業者の売り惜しみなど。戦争景気の反動といえる。

西洋の大戦の復興が落ち着いてくると日本の輸出は減少し、1920年以後は戦後恐慌の時代となった。

1921年 ワシントン海軍軍縮条約 (大正10年)
不況の中で、列強各国は軍拡に伴う経済負担に耐えかねた。五大軍事大国の戦艦、空母等の保有制限が設けられた。この時点で日本はアメリカ、イギリスに継ぎ世界第三位の軍事大国だった。

1923年 関東大震災 その戦後恐慌時代の最中、追い討ちをかけるように関東大震災がおこった。
1926年 昭和を迎える

1929年 世界恐慌
10月24日、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落し、世界恐慌が始まる。1920年代のアメリカは大戦への輸出に重工業が発展、モータリゼーションも始まっており、投機が過熱していた。
イギリス・フランス・アメリカ合衆国などは植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、多額の賠償金を負っていたドイツや、植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。日本にとっては軍の中国進出を推進する要因になり、ドイツではナチの台頭をゆるした。

1930年 日本では金解禁(金本位制の復活)の影響から深刻なデフレ
これは明らかにタイミングを誤っており、他国が金本位制を停止するなかでの金解禁だった。翌年にはすぐに再停止されたものの、大量の金が流出した。

金本位制には国際収支を安定させる働きがあり、金本位制の下では財政赤字を作りにくい。そこで巨額の財政出動が必要となる戦争の前に、つまり第一次世界大戦のはじまる前に列強各国は金本位制を停止した。もうすこし言うと、兌換紙幣と金の交換を一時的に停止した。
戦争が終わると各国は金本位制に戻したのだが、日本は関東大震災を挟んだために再び財政出動が必要になった。そんな事情があって金本位制に戻せなかったのだ。
たびたび各国から金解禁を打診されてきた。現在の中国が人民元の切り上げを要求されているのとおなじ状況だと思っていいと思う。通貨を過小評価しておくことで、通貨の購買力を犠牲にして輸出を伸ばすことができる。労働力を安価に維持する。金解禁すると国際収支が均衡をとろうとするので円高を誘引する。
金本位制の下では経済の状況にあわせて金が出たり入ったりする。金を媒体とした変動相場制みたいなものだからだ。これも現代の日本の状況ににている。というよりもこの先、日本は何度でも円高不況に頭をぶつける。

1930年 ロンドン海軍軍縮会議
列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的として開催された。
これをきっかけに統帥権干犯問題が起きる。政府が外交によって兵力量を制限したことに対し軍部は、兵力量の決定は軍部の統帥権であるとごねる。
浜口雄幸総理は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、内閣は総辞職した。この事件以降、日本の政党政治は弱体化していく。協調外交が行き詰まり軍部の暴走へとつながる。

1931年 満州事変
これより15年戦争(日中戦争+太平洋戦争)へ突き進む。翌1932年には満州国建国。国際連盟はリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて満州からの撤退を要求。これをはねつけると日本は国際社会から孤立した。

1932年 五・一五事件
当時の首相、犬養毅が軍縮をしようとしたところ、決起した将校に殺害された。大正デモクラシーというムーブメントの中で民衆は軍人に冷たくなっていた。そこへロンドン海軍軍縮会議の統帥権干犯問題、そして今回の軍縮が重なったという背景にある。犬養毅が最後に、力をもった政党がなくなった。

1936年 二・二六事件
天皇親政を目指したクーデター未遂事件。しかし、昭和天皇にその気がなかったために未遂に終わる。

同1936年 広田弘毅内閣では1913年に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。

軍部大臣現役武官制
大日本帝国憲法の欠陥ともいえる制度。軍部大臣を現役の大将、中将に限るというもの。軍部大臣のポストにつける人間が現役軍人のお偉いさんに限られている状態。大臣が現役のお偉いさんでなければならないということは、軍部に対して客観的な大臣を立てることができず、しかも武官の人事は天皇の統帥権(そのうえ軍部が輔弼することになっていた)であり内閣の自由にならないので、政府の前に軍部がある状態を作り出した。軍部が後任の大臣を立てなければ内閣を総辞職に追い込むことができた。
一言で言うと文民統制(シビリアンコントロール)の対極にある制度だった。

1933年 国家社会主義ドイツ労働者党のヒトラー内閣が成立
翌年には大統領の死去と共にヒトラーは総統に就任、第三帝国が成立した。

1935年、ヒトラー政権のナチス・ドイツは一方的にヴェルサイユ条約を破棄

ヨーロッパでは1939年9月、ナチ政権下のドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発した。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国軍事同盟(三国同盟)を締結。戦争は世界へと広がっていく。

コメント

非公開コメント

プロフィール

じょなさん

Author:じょなさん
元バックパッカーの引きこもり、世界に飛び出す引きこもり。当初は役立つ情報を、と思っていたんだけど自分の興味しか書けないね。

最新トラックバック

広告

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード