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それぞれの宗教の教義の核心を一言で説明してみようと思う




それぞれの宗教の核心となる教えを説明してみようと思う。どんな宗教でも核心となる教えはそれほど複雑ではない。それにそれは私たちがそれぞれの宗教に抱いているイメージよりもよっぽど共感できるものだ。自分たちの信仰の正当性を強調すればするほど宗教が濁って本質が見えなくなっていく。そんな気がしてならない。

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例えばキリスト教というと生物の進化を認めていないから非科学的だとか、そもそも自然選択説は証明されていないだとか論争になるがこれは道徳上どちらでもかまわない。聖書にかかれていることが正しい方が正当性を主張しやすいかもしれないが、くだらない議論だ。新約聖書に並べ立てられているキリストの起こした奇跡にしてもそうだ。キリスト教は我々にパンを無限増殖させて人々に分け与えよとは言っていない。だからキリストはすごいでしょと言っているに過ぎない。

すると聖書の9割はどうでもいいことだ。ではキリスト教の核心はなにか。

キリスト教

・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

実にアガペーだ。

ユダヤ教

・あなたが嫌なことをあなたの隣人にしてはいけない。これがトーラの全てである。その残りは注解である、さぁ行って学びなさい。

これを読んだ時私はユダヤ教が好きになった。


イスラム教

・「神のほかに神はなし」
・「ムハンマドは神の使徒なり」
・これらの「信仰告白」

イスラム教が重視している六信五行で言っていることはおおむねこんなことだ。一本筋が通った道徳を説いているとはいいがたい。イスラムの道徳はムハンマドがどうしたからこうするべきではないかというような、場当たり的な印象をぬぐいきれない。

ただ、五行の中に「喜捨(ザカート)」というのがあり、これはコミュニティ内での相互扶助を意味している。救貧税とも訳される。やはりこれがイスラム教の道徳なのだろうと思う。さらにシャリーアを紐解いてみると、品位を大事にしていることが読み取れる。つまり女性やお酒を遠ざける。理性的であろうとする。

イスラムの一夫多妻が男尊女卑の考え方に基づくものだという意見があるが、未亡人を守るための制度だったという見方もある。私もそうだと思うしそうであるといいなと期待している。ただ、この一夫多妻の問題や、ジハードの解釈だとかは先に述べたように、イスラム教がどうにも場当たり的でなぜそういう行動をとるべきなのかということを一本筋の通る形で示していなかったがために、教義を都合よく解釈しやすい宗教に成り下がってしまっている。そんな気がしてならない。残念でならない。

仏教

・仏陀は生きることが辛い原因を突き止めた。そしてその矢を抜く方法を説いている。

仏教は辛いと感じていない人に対しては教えを押し付けていない。日本の仏教を含む大乗仏教はコミュニティを意識しているが本来の仏教は自己完結する。道徳を説いている感じはない。

儒教

・勉学に励み、親孝行をし、立身出世しなさい。

かなり意識高い。

道教

・欲を捨て無為自然に生きればいいじゃない。

かなりニートである。

神道

神道に教義は存在しない。

神道は七福神の乗る舟のようなものだ。恵比寿(神道)、大黒天(ヒンドゥー、神道)、毘沙門天(ヒンドゥー、仏教)、弁財天(ヒンドゥー、仏教)、福禄寿(道教)、寿老人(道教)、布袋(仏教、禅宗)の教えが神道に乗っている。意識高い儒教は乗っていないがニートが2人乗っている。

ヒンドゥー教

・盲目的に自分の果たすべき義務を全うしなさい。
・盲目的にあなたの好きな神様に帰依しなさい。
・瞑想により神と一体化しなさい。

お待ちかねヒンドゥー教。インドかぶれなので語りすぎてしまうかもしれないがご容赦願いたい。

ヒンドゥー教といっても広いのだがメジャーな宗派、特に外国人がなじみやすいビシュヌ派はこの3つの道がドンピシャだと思う。ヒンドゥー教の目的は解脱。これは仏教の解脱とは少し違うのだが、ヒンドゥー教の解脱は、未練なく、恨まれることなく、慕われることなく死ぬこと、と言い換えることができるのではないかと思う。慕われてもいけないわけだから、歳をとったら家族を捨てて森で瞑想することがいいことだとされている。なんぴとにも執着せず、なんぴとにも執着されずに死ぬことが解脱といえる。ヒンドゥー教にはそのための道が3つ示されている。つまり上の3つはどれか一つを選べば良い。

カースト制度というとイメージが悪いかもしれないが、ヒンドゥー教では生まれながらにして職業が決まっていた。そのことに疑問を抱かずに、義務を遂行することにより生じる結果にとらわれずに、ただただ義務を遂行する。マハーバーラタでは主人公のアルジュナは戦士だ。親兄弟を二分した戦争、マハーバーラタにてアルジュナは親類に剣を向けることをためらう。それを見たクリシュナはためらわずに殺せとアルジュナを駆り立てる。それが戦士として生まれた義務なのだから。言ってしまえばヒンドゥー教は人生が理不尽であることを前提としている。これはカースト制度を維持したい特権階級の方便だったのかもしれないが、カーストは才能ある天才を犠牲にしつつも落ちこぼれでも職にあぶれることはないセーフティネットとしての機能を持っていた。

盲目的に義務を全うすることができない人は2番目の道を選べばよい。兄弟と戦いたくない人だっているし、職業を選びたい人もいるかもしれないし、同じ仕事ならお金のいい方を選びたいひともいるかもしれない。こういう行為は盲目的に義務を果たしているとは言えない。その場合、好きな神様(イシュタデーヴァター)に盲目的に帰依する。すなわち好きな神様の絵を飾り、聖地巡礼をし、お布施をする。完全に萌え豚である。その代り損得を考えながら義務を全うしてもよい。ちなみにヒンドゥーの神様は日本に負けないくらい多いが、(少なくともビシュヌ派では)すべてはヴィシュヌの顕現である。

もっと意識の高いヒンドゥー教徒は3番目の道を選ぶ。すべての神様はヴィシュヌの顕現した姿だと語ったが、実は万物の背後にはブラフマンが存在している。欲を捨てることで人の持つ我をブラフマンと一体化することができる。

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Author:じょなさん
元バックパッカーの引きこもり、世界に飛び出す引きこもり。当初は役立つ情報を、と思っていたんだけど自分の興味しか書けないね。

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